東京大学大学院教育学研究科附属学校教育高度化・効果検証センター(CASEER)では、「初等中等教育における探究学習への支援プロジェクト」において、児童生徒の発意や関心に基づく探究学習に対して専門の研究者が的確なアドバイスをすることにより、探究の成果をいっそう高度で充実したものとすることをねらいに、東京大学の教員もしくは大学院生がオンラインを通じて支援・指導を行っています。
今回は中学2年生 Kさんの、子どもの声を聞くことに関する探究プロジェクトを通して出てきた疑問や悩みに、大学院教育学研究科・学校教育高度化専攻教職開発コースの浅井 幸子先生がアドバイスしました。
探究のテーマ: 子どもの声を聞くことについて
- 相談者:Kさん(中学2年生)
探究学習の取組単位:個人

- アドバイスした人:
東京大学大学院教育学研究科 学校教育高度化専攻
教職開発コース 浅井 幸子 教授
[専門] 教育学,保育学,教師教育,教育方法学
[研究テーマ]教育実践の歴史的探求
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- コーディネーター:教育学研究科 本田由紀教授(CASEER センター長)
Kさんのご相談
子どもの話し合いは、本当に自由で主体的なものになっているのか
Series6.子どもの声を聞くことについて
浅井先生:
まずは、Kさんからご相談内容をお話ししていただいてよろしいですか?
Kさん :
はい。私は来年の自由研究で子どもに関するテーマについて調べたいなと思っています。今年度、住んでいる区の子ども会議の委員として、実際に会議に参加したりしているんですが、その話し合いの時間に区の職員の方の問いかけや、会議の中で声の大きいメンバーの意見とかによって、話の流れが少しずつ決まってしまっているということに違和感があって。参加してる子どもたちはみんな自由に発言してるように見えたんですが、大人の雰囲気とか場の感じによってある程度決められているように感じられて、結論が決まったような話し合いをしているように感じたんです。このような体験を通して私は、オンラインの学習とか、デジタルの教材が結構今広がってると思うんですけど、その時に子どもが迷ったり、自分だけの工夫とか発見をしながら考える時間っていうのが少なくなってるのかな、あらかじめ学び方のスタイルが決められているんじゃないのかな、という点に興味を持ちました。来年の自由研究の時に実際の教育現場にもし行けたら、インタビューや観察をすることを計画しています。具体的には、例えば幼児教育とか小学校の観察であったりとか、教員や保育者の方への簡単なインタビューとか。また、春にカナダのバンクーバーに留学するので、そこの教育現場との比較をしたいなと予定しています。今回の調査は自分の感覚や疑問が最初の出発点なので、理論的な観点とか、様々な視点が少し不足しているのかなと思っていて。自分一人ではただ興味深かったということで終わってしまうかもしれないと思いました。なので、そのような研究をされている研究者の先生にお話を伺って学べる機会があって、とても嬉しいです。よろしくお願いします。
浅井先生:
子ども会議の中で、実は大人が結論を決めていて、それに沿った議論をしているのではないかというのは、すごく大事な感覚というか。実際にそういうこともあるのかもしれない。そういうことについて考えるための材料をお渡しできればと思っています。調査については後から少しお話ししようと思いますが、子どもはやっぱり弱い存在、ヴァルネラブルな(傷つきやすい)存在なので、調査や研究において子どもを保護する規定があるんですね。研究するときに、例えば私たち研究者も子どもの写真を撮るのはすごく厳しくて。保育園や幼稚園に入るのも、日本よりも海外の方が外部の者をなかなか入れてくれないところがあるので、そこは準備も必要になるし、もしかしたら違うやり方を考える方がいいかもしれない。例えば、公園で子どもがどのようにして遊具を使っているかを検討した卒論生がいたんですが、その時にその区で許可を得てやっているんですね。もし親御さんから「何をしているんですか?」って言われた時に説明できるように準備していないと、小さい子を観察するっていうのは通報されかねないところがあるので、その点についても一緒に考えられればと思います。
Kさん :
はい
浅井先生:
いただいたメールを元にパワーポイントを準備していますので、共有しながら会話していきたいと思います。
その後いただいたメールの中で、子どもらしさっていう言葉はどういうことを指しているかという問いがありました。これは先ほどの子どもの声を聞く時に、声の大きいメンバーの声がどうしても通ったり、大人が決めているルートっていうのがあるんじゃないかという感覚とつながるところなのかなと思います。一つはこのような問題は、実際に子どもがどのように捉えられてきたかという歴史の中で、「子どもって一体誰なんだろう」、「“一般的な子ども”は一体いるのか」っていう問題と関わると思うんですね。子どもって誰だろうと聞かれた時に、Kさんはどういうふうに考えていますか。
Kさん :
私も今子どもなので少し難しいんですが、いろんなことを学んで自分なりに色々迷ったりしながら、新しく発見とかしながら学んでいく権利があるようなものかなと。
浅井先生:
そうですね。今のお答えだと、一つは確かに子どもにはそういう権利が守られるといいなと思いつつも、じゃあ大人はいろんなことを学んだり、迷ったり、発見したりしない存在なんだろうかっと問うたときに、どう考えますか?
Kさん :
大人も迷ったりすると思いますが、でも大人だといろいろ知っているけれど、子どもだったら最初になかなか知らない中で新しいことを発見する点が違いかなと思います。
浅井先生:
そうですね。実は、今のやりとり自体が学問的にも問われてきたところです。教育や学習は子どものものとされていた時代があるんですが、それに対して 1970年代に生涯教育とか生涯学習っていう言葉が登場して、教育や学習が実は子どものためだけのものじゃなくなったっていう、歴史的・社会的な背景があったり、発達っていう言葉一つ取っても、もともと発達心理学というのは児童研究、児童心理学からきていて「発達する」というのは子どものものでしたが、それも1950年代ぐらいから徐々に生涯発達という学問として成立していったっていうプロセスがあって、学ぶとか発達するとかいうことをめぐる子どもと大人の境目って、学問的にもすごく議論の焦点になってきているところです。今、明確にこうだよっていうお答えを示すよりも、そうやって議論されてきているっていうことをお伝えするのが大事だと思うので、ぜひそうなんだって考えてもらえるといいなと思います。
Kさん :
はい
浅井先生:
まずはその境目を巡る問題。それからもう一つ、問いかけの中であった、大人が子どもに何を見せたいと考えるかっていうことと、子どもが何を見たいかって思うことはどのぐらい切り離せるだろうか。これについてはどう考えますか。
Kさん :
切り離せるのか…
浅井先生:
全く別のものとしてあるか、それとも大人が見せたいと思うものを子どもも見たいと考えるようになるのか。
Kさん :
私は大人が子どもに見せたいって思うものは、自分の体験になりがちかなと思います。実際そうであれば、子どもが何を見たいかとは違うんじゃないかと思いました。
浅井先生:
じゃあその場合、子どもが見たいと思うものはどうしてそれを見たいって思うようになるのかな。
Kさん :
うーん。そうですね。えっと…子どもがどうして何かを見たいと思うようになるのか?
浅井先生:
そうそう。例えば音楽だったら、大人が聞かせたい音楽と子どもが聞きたい音楽はたぶん違っていると思うんだけど、それぞれが聞きたい音楽はなぜ違ってくるんだろう。
Kさん :
えっと。子どもは自分の居場所があるのかなと思って。例えば私の周りでもけっこうインスタとか TikTok とかを使ってる子が多いんですが、そういうのは親とかに制限されてない形で自分の表現をするための SNS だと思うんですが、やっぱりなんていうか、自分の居場所が欲しいのかな。
浅井先生:そこは子どもたちだけの世界で大人って介在してないのかな。
Kさん :
大人はいるけど、 SNS だったら自分と同世代の人とかとつながることができると思うんです。そういうので自分の居場所とかを作れる、出せるのかなと。
浅井先生:
じゃあ、その SNS を設計している人とか、そこでの文化的なコンテンツを配信している人たちっていうのは大人でしょ?
Kさん :
はい。大人…。確かに大人が作っててっていうことですよね。
浅井先生:
うん
Kさん :
もしかしたらそういうふうに発信してる立場の大人の人は、教育のためになるとか、子どもたちにすごく見せたいとか狙ってやってるわけではないのではないかと思います。その人たちもその人たちで、自分が楽しいって思うことをたぶん発信していると私は思ってて。だからそれが子どもたちも「あ、私が好きなやつだ!」みたいにどんどん発見していくっていう感じなのかなと思います。
浅井さん:
なるほど。今のお話で、Kさんが問題にしているのは、大人の教育的な意図というか、純粋に大人か子どもかっていうのはもちろん今お話していたように分けがたい、子どもだけの世界っていうわけではないんですが、でもその教育的な意図を持って作られているものと、そうではないものっていうのが今考えられているところなのかなというふうに理解しました。本田先生、もし何かあれば。
本田先生:
浅井先生が問いかけてくださっていることって、たぶんKさんの質問が、子どもには子どもの純粋な世界があるって思っていることが前提となってるように見えたので、そんなふうにすっと切り分けられるかな、子どもだけの純粋な世界があることを前提に考えていいのだろうかという、おおもとのところをもう一回よく考えてみてはどうかという促しをしてくださったのかなと思いながら伺ってたんですけど。
浅井先生:
ありがとうございます。どうかな。
Kさん :
うーん。確かに。子どもと大人みたいな区別で切り分けて考えていたかもしれない。
浅井先生:
ただ、それでも子どもたちの作り出すものを大事にするか、そうではないか。例えばSNSが、子どもたちが自分たちの世界を作り得るような場所になっているっていうのはそうかもしれないけれども、それは本当に子どもを大事にしてくれるような場所になっているかどうかっていうのは、少し難しいなって思う部分が、大人の立場から見ると思うところはあります。でも、子どもたちが自分たちのものだと思えるようなものを、大人がサポートをすることができないとは思っていないので、その複雑な関係の中でも、子どもたちにとって大事なことが大事にされ、子どもたちの発見っていうものが大切にされるようなことがどうしたら可能かっていうことを考えられると思っています。だから、分けられないっていうのが主眼ではなくて、その先がある。分けられないけれども、「でも」っていうことを考えてもらえるといいかなっていうのが一つです。
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支援ミーティングを終えて
Kさん:
私の体験に基づくふわふわとした疑問から、具体的な探究のテーマという観点で今後にも繋げられそうなアドバイスを沢山いただきました。プロの研究者の先生に直接ご指導いただけたことで、子どもを対象とした調査における倫理的な制限など、自分では気づけなかった視点も知ることができました。また、この春休み中に向かった短期留学(カナダ)では、それぞれの文化を尊重しながら共存するための異文化間のコミュニケーションスタイルの違いにますます関心を持ちました。子ども会議は、大人の会議や政策決定の場ではマイノリティになる子どもが、同じ日本語でも違う方法でコミュニケーションする方が本音を引き出しやすい可能性があることを視野に入れて行うと、より有効になるのではないかと感じました。改めて、この度はありがとうございました。
浅井先生:
子ども会議に参加した時のKさんの疑問は、とても鋭くて大切なものだと思います。「子どもの声」といった時に、子どもとは誰なのか、どのような子どもなのかという問いを問わなければ、大人が聴きたい声を聴いたり、特定の階層やジェンダー等の子どもの声だけを聴いてしまったりということになる。では、この場合は自治体の政策決定に関わってということになりますが、「子どもの声」を聴くことはどのようにして可能なのか、私たちの方が探究すべき問いを共有してもらった対話でした。どうもありがとうございました。
(文責:CASEER・谷垣明里)





